kamikaze
Administrator
「空気を読む」ということばが、
あちこちで聞かれるようになった。
おもに、「空気を読め」とか
「空気が読めないやつ」という具合に
否定的な言い方で使われることが多い。
他の言い方をすれば「察する」ということだ。
この「察する」という能力は、
昔は、みんなにあった
ということになっている。
みんなが察し合うコミュニケーションをしてきた、と。
「察し」のコミュニケーションは、
明文化されてないルールのように、
わからない者には、なにをどうすればよいのか
判断する基準が見えないために、
新しい世代の人間には評判が悪かった。
してほしいことをハッキリ言ってください、とか、
言ってくれなきゃわからないでしょ、とか、
「察しのコミュニケーション」に
反対する立場の人の言い分は、わかりやすい。
もし、「察し派」と「明文派」というものに
分けられてディスカッションしたとしたら、
「明文派」の勝ちは目に見えているだろう。
これまでも、これから先も、
「もっと察しというものを大事にしろ」という意見は、
どんどん少数派として取り残されていくのだろう。
そう思っていたのだった。
ところが、「少しは空気読めや、ほんまに」というふうに、
笑いのジャンルあたりから、
決してノスタルジックにではなく、
「芸人としての必須条件」として
「空気を読む」という資質が語られるようになっていた。
これまで、近代化する一方だとばかり思っていた
コミュニケーションスタイルだったけれど、
ひとつの「王政復古」みたいな現象が、
始まっていたのかもしれない。
http://www.1101.com/darling_column/2006-01-23.html
Nếu bác chê ngắn quá thì cứ theo link để dịch tiếp nhé